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播磨路の秋
どこまでも済みわたる空に、入壇の行者だけでなく多くの参拝者が祈りを込めた護摩の煙が吸い込まれていきました。護摩の行は決して鈴懸やカンマン羽織に身を包み袈裟を着け、経を唱える行者だけのものではなく、どんな姿外見であってもどんなものにも手を合わせ何かに祈る心を持つ人、そしてその祈りが自身の利のみではなく、むしろ自分以外の人たちの幸せに向けられた一心であること、これがが護摩の輪に加わることができる資格ではないかと思います。山伏、行者は深山に分け入り、身体を酷使する厳しい行をしている、あるいは今は年をとったから出来ないけど昔はそうして心身の鍛錬をし、研鑽を積んできたと人は言います。そのことを自慢したり、聖護院で勉強したり、どこどこで行をしている、ということを言って「世間で迷いにとりつかれた弱者」から金品を受けること公然と業としている人もいます。人それぞれに考えがあり、違っているのが当たり前。その中で私の考えを申しますと、修験の名を語って前述の「弱者」を「救う」と称しわけのわからぬ行為をして金品を受領する者は行者ではなく「人の弱みをネタにして業を営む者」ではないかと思います。山伏は「拝み屋業」ではないはずです。
また一方、鈴懸・結い袈裟姿の行者でも言動に首を傾けたくなる人も多く目にします。おそらく私のそのうちの一人ではないかと反省します。しかし、人に迷惑をかけたり、きちんと己を律して生きていくことができないから山に入ったり、滝に打たれたり、護摩に加わっているのであって、しっかり道を違わず生きていくことができているまたはできる人は、山伏になんかならないのかなあ、と自虐的な見方もできます。ともあれ、ヤヤコシイ行者さん、いっぱいいるように見えます。祭りの太鼓が遠くから聞こえ、刈り取りの始まった播磨路の秋。道場に続く参道脇のちいさな石の地蔵さん達は大勢の山伏さんに嬉しくてニコニコ笑っているような口元でした。
来年は青蓮さんが留守番役ではなく、伽耶院にお越しいただけますように。
また一方、鈴懸・結い袈裟姿の行者でも言動に首を傾けたくなる人も多く目にします。おそらく私のそのうちの一人ではないかと反省します。しかし、人に迷惑をかけたり、きちんと己を律して生きていくことができないから山に入ったり、滝に打たれたり、護摩に加わっているのであって、しっかり道を違わず生きていくことができているまたはできる人は、山伏になんかならないのかなあ、と自虐的な見方もできます。ともあれ、ヤヤコシイ行者さん、いっぱいいるように見えます。祭りの太鼓が遠くから聞こえ、刈り取りの始まった播磨路の秋。道場に続く参道脇のちいさな石の地蔵さん達は大勢の山伏さんに嬉しくてニコニコ笑っているような口元でした。
来年は青蓮さんが留守番役ではなく、伽耶院にお越しいただけますように。
無題
いつもコメントを有り難うございます!
お返事が遅くなってしまい、申し訳有りません・・・
確かに、菜根行者様のおっしゃるとおり、
護摩の輪には衣躰をつけているか、
つけていないかだけで参加資格が有る無しをいうのは、
本来おかしいことかもしれないです。
ただ、結界の中に入るためだけに、
衣躰をきちんと整えるというだけれあり、
衣躰をつけていなくても、
もしかしたら、自分は苦行をしてるんだと、
傲っている人よりも熱心に祈りを捧げていらっしゃる方もいるかもしれませんし・・・
修行は、自分を高めるためのものであるとは思いますが、
逆に自分が傲ることないように、
戒めるためでも有るのでは無いかとも思います。
行をする=行をさせてもらえる。
行をするためには、様々な人の支えがなくては絶対に出来ないことだと思います。
私は、ある先輩に
あらゆるものに『ありがとう』をいうといい。
と教わりました。
本当に当たり前のことで、簡単なことですが、
なかなか出来ないことに気がつきました。
そして、ありがとうというと、
自分が多小なりと傲っていたのに気付かされる気がします。
きっと、自分のやってきた修行、弱い者を救うという名目で高額の金品を要求するような人は、
『ありがとう』という言葉を、
心から言うことを忘れてしまっているのでは無いでしょうか・・・
なかなか簡単にできず、
すぐに忘れてしまう有り難うですが、
頑張って心のどこかにかならず持っておきたいと思います。
来年こそは、菜根行者様と、伽耶院で一緒に、
心地よく御勤が出来るよう、
一年間頑張ります!
これからも、よろしくお願いします!
お返事が遅くなってしまい、申し訳有りません・・・
確かに、菜根行者様のおっしゃるとおり、
護摩の輪には衣躰をつけているか、
つけていないかだけで参加資格が有る無しをいうのは、
本来おかしいことかもしれないです。
ただ、結界の中に入るためだけに、
衣躰をきちんと整えるというだけれあり、
衣躰をつけていなくても、
もしかしたら、自分は苦行をしてるんだと、
傲っている人よりも熱心に祈りを捧げていらっしゃる方もいるかもしれませんし・・・
修行は、自分を高めるためのものであるとは思いますが、
逆に自分が傲ることないように、
戒めるためでも有るのでは無いかとも思います。
行をする=行をさせてもらえる。
行をするためには、様々な人の支えがなくては絶対に出来ないことだと思います。
私は、ある先輩に
あらゆるものに『ありがとう』をいうといい。
と教わりました。
本当に当たり前のことで、簡単なことですが、
なかなか出来ないことに気がつきました。
そして、ありがとうというと、
自分が多小なりと傲っていたのに気付かされる気がします。
きっと、自分のやってきた修行、弱い者を救うという名目で高額の金品を要求するような人は、
『ありがとう』という言葉を、
心から言うことを忘れてしまっているのでは無いでしょうか・・・
なかなか簡単にできず、
すぐに忘れてしまう有り難うですが、
頑張って心のどこかにかならず持っておきたいと思います。
来年こそは、菜根行者様と、伽耶院で一緒に、
心地よく御勤が出来るよう、
一年間頑張ります!
これからも、よろしくお願いします!